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独立創業日記

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独立創業日記1

 

1.ダイヒョートリシマリヤク
会社というものは、作ってみるとあっけなく設立できてしまった。肩書きは代表取締役、つまり社長である。でも、社長の下に従業員は一人もいない。それでも社長なのである。(1999年会社設立時)
すでにSOHOで頑張っている人やこれからSOHOを目指す人の交流会に参加してみた。名刺交換をして苦笑いしてしまった。みんな代表取締役あるいはそれ相 当の肩書きをもっている。おそらく、個人的な実入りは大手企業の係長クラスにも及ばないはずなのに、肩書きはサラリーマンなら出世の頂点ともいえる取締役 なのである。
私がイメージしてきた代表取締役という響きと実態のギャップに思わず噴出してしまいそうになる。もちろんこれはそっくりそのまま自分に当てはまることである。経営が軌道に乗るまでの間は、名刺から代表取締役の肩書きをはずそうかと思った。

 

 

2.息ができない
これは、まだ前の会社に在職中の出来事である。
4月のイレギュラーな人事異動以来、付き合いも業務内容もがらりと変わり、日々気が抜けていくようだった。後で医学書で検討してみると、いわゆるストレス症状というやつが出始めていた。

春過ぎあたりから、勤務中に息苦しさを覚えるようになった。変な話だが机の前に座っているだけなのに口で息をしなければ苦しいのである。
鼻で息をしているとどんどん苦しくなっていった。会議室のような少し狭い空間ではいっそう症状がひどくなった。会議中席をけって飛び出しそうになる自分を押さえるのに大変だった。もちろん会議の中身なんて聞いているわけがない。
自動車の運転をするときも窓を閉め切ることができなかった。閉じた空間にいると押しつぶされそうな錯覚に襲われた。寝室でも錯覚に襲われ眠れない夜が続き始めた。

さすがに、出張先の車の中で不安に襲われた後では「これはやばい」と思い、翌日、生まれて初めて精神、神経科の医者を訪ねた。医者は睡眠薬を出してくれた。ちゃんと眠ることができれば不安症状は緩和されるとのこと。睡眠薬の世話になるのも初めてだった。

 

 

3.かみさんに泣かれてしまった
こころの変調に一番心配していたのは私よりかみさんだったのかもしれない。
ある晩、例の睡眠薬を手にして「これがあるから大丈夫、今夜は何錠飲もうか」などと言っていたらそばにいたかみさんが泣き出してしまった。
「お父さん、こんなのに頼らないで...早く...元気になって...」

これにはしまったと思った。睡眠薬の存在は、私の心の病的症状を決定的なものとするだけで決してかみさんを安心させるものではなかったのだ。
後悔した。本当に後悔した。これ以上かみさんを不安にしてはいけない。子供を不安にしてはいけない。俺は一家の主なんだ。しっかりしろ!
私は睡眠薬に頼るのをやめた。以来1錠も服用していない。
主としての自覚は自信と責任感をよびおこし、際限なく虚ろになる心にブレーキをかけた。

 

 

4.部下は月に300時間働かせよ
数年前の社長交代劇から会社の雰囲気ががらりとかわった。
中間管理職的立場にあった私の元にも後輩や新人が配属されてきた。経営陣からのお達しは「部下を月に300時間労働させよ。もしそれが不服で部下が辞めていっても気にしなくてよい。どんどん新人は採用できるから」というものであった。

こ の会社 (*1) では、年俸制および完全フレックスタイムを採用していたので残業や休日出勤、それに伴う超過勤務手当てといった概念はない。それは、仕事柄納得済みのこと であるが 月300時間の労働は「強制されるもの」ではないと思っていた。対外的に実態を公開すれば労働基準法に触れていると思う。
日常業務の他に、自由な裁量による勉強や研究も含めて300時間業務に拘束?されることがあってもそれは許されると思う。日常業務だけで300時間の拘束はいただけなかった。

技術者、あるいは研究者でもありたいと思う自分の価値観に照らし合わせて、自分自身でも納得できない労働を部下に強制するのは苦痛でしかなかった。まして法に触れることである。会社存亡の危機ならいざしらず、会社としては、至上最高の売上と利益が出ていたのだ。

にもかかわらずこのような指示を出す経営陣が、ただの拝金主義の俗物に見えてきた。失望した。この人たちについていってはいけない。離れなければ自分がつぶれる。カネのためと割り切る器用さはなかった。そういった方面での適正はなかったようだ。

(*1) この会社はもう存在しておりません。詮索無用

 

 

5.そして独立を決意した
会社の看板を下ろし、肩書きもなくした自分がいったいどれほどのものなのだろう。漠然とした危機感があった。40歳で自分は何をしているだろう、50歳、60歳ではどうだろう。この疑問に答えをイメージすることが出来なかった。
会社に安定を求めていたわけではなかったが、経営方針に対する不信感は、会社と運命をともにするなどという忠誠心をふっ飛ばしていた。
もうこの会社を離れよう。ここに留まっていては自分が成長しない。40歳で何をしていたい、50歳、60歳で何をしていたいか。自分で考えて自分で決めなければ。 1998年36歳の秋のことである。

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